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古代には、平安京に住む貴族達の葬送、遊猟の地としての性格が強くありました。
平安時代には、京中に疫病が流行した際に、今宮神社にて悪霊退散の御霊会が行われ、後には、やすらい(休息・ためらいなどの意味)の風流(芸能)として庶民に親しまれています。
戦国時代には、大徳寺にて織田信長の葬儀が盛大に営まれた事で、天下取りという政治の舞台に引っ張り出されたことで、大徳寺の各塔頭(本寺の境内にある末寺院)が急速に整備されました。
当地区の村落形成や領主配置もこの頃に定着したといわれます。
最大の変化は豊臣秀吉の京都改造事業の一つのお土居築造です。巨大な築造物で地域を南北や東西に分断されるかたちとなります。
周辺一帯を含む地域は大宮郷と呼ばれ、区域内には、紫竹・大門・上野・雲林院・門前などの大徳寺境内五ケ村と大宮森・三筑・新門前・開・薬師山などの地域がありました。
江戸の頃にはまだ田園的景観と素朴な雰囲気の残り、のどかな遊山の地、信仰の地として親しまれていました。
明治の初期にはお土居の解体、待鳳小学校の開校、大徳寺に京都簡易農業学校が設立されるなど、京都の文教地区として、また、京の中心部からの移住者も急増し、京に近く住みやすい場所として、住宅地としての開発が進んでいきました。
『史料 京都の歴史』より
市バス