京都市左京区岩倉の歴史
市内北部の岩倉は、比較的近年まで田畑の景色の残る農村、現在は区画整理も施行中で宅地化が進行中です。
1、縄文時代より前から人が住んでいた!
京都市北部では、北白川台地と上賀茂台地で縄文時代より古い遺跡が見つかっています。
深泥池周辺や、村松テラス造成地でもナイフや矢じりなどの石器が見つかっています。
大昔の京都盆地は大部分が湖の底だったようで、湖の入り江だった岩倉は当時、人の生活できるごく限られた場所の一つだったといわれます。
2、古墳や埴輪(はにわ)も見つかった!
岩倉西南の幡枝、今の岩倉自動車教習所辺りで、大和朝廷時代と思われる古墳がいくつか見つかり、埴輪や鉄の刀、銅の腕輪、鏡、玉などが見つかっています。
岩倉にも渡来人の進んだ文化が伝わっていました。
3、かわらの名産地!
また幡枝付近では、窯(かま)も見つかっています。
ねん土の多い地質で、飛鳥時代ごろからかわら造りが始まりました。その後、大量生産や、須恵器(すえき)という硬い土器の製法も伝わり、かわらの生産が主となっていました。
後に平安京という都の造営にも多く使われたといわれます。
4、岩倉全域がたんぼに
飛鳥時代には、律令制度という、中国を手本とした政治の仕組みが伝わりました。
土地が碁盤の目に区分けされ、戸籍が作られ、人々には田が割り当てられ、税をとられることが始まります。
5、西の坂本
平安時代には仏教が栄え、大雲寺などの寺がつくられました。
比叡山と同じ天台宗の寺院が多く、比叡山延暦寺の里の寺が建ち並ぶ「坂本」に対し、西の坂本といわれたほど栄えたといいます。
6、実相院
実相院は元々上京区にあり、天皇家や貴族の子どもが住む、門跡寺院でした。応仁の乱の当時、その戦火を逃れ、大雲寺の境内に引っ越してきました。天皇家や貴族、名門の武士とつながりが深かったため、実相院には今も多くの重要な文化財が残されています。
7、岩倉の城
岩倉には、小倉山城、大雲寺城、長谷城、花園城がありました。
天守閣を持つ雄大な「城」というよりも、「とりで」に近いものだったようです。
鎌倉時代に、牛馬を使う農法が広まり、室町時代には庶民も開墾をするようになっていきました。そうして力をつけた土豪をリーダーとして、人々は村の掟をつくり自治を行うようなり、領主である貴族や社寺に年貢をしだいに納めなくなっていきました。
誰の保護も得られなくなった農民や土豪は、自衛のため、村の近くに城を築き、敵が来たときはそこへ逃げ込んだといわれます。
8、木野のかわらけ
江戸時代、木野では「かわらけ」という素焼きの皿を生産していました。ねん土を手の平とひじだけで丸くのばして焼いたもので、庶民に用いられていました。
江戸時代末期には陶器や磁器が広まり、かわらけの生産量は減ったとされていますが、それでも明治38年には年間40万枚も生産していたといわれます。
9、岩倉具視(いわくらともみ)
岩倉具視は幼少時代を岩倉で過ごし、その後政治の世界に入りましが、京の町を追放され、再び岩倉に戻ってきました。当時住んでいたと言われる家は今も残っています。
岩倉に暮らしながらも世界の情報を集め、その後の明治の新政府の中では、中心的人物として活躍していきました。
10、住宅地へと変わる岩倉
明治6年、日本で最も古い小学校のひとつとして岩倉小学校が開校しました。
昭和38年に宝ヶ池通ができ、昭和41年に国際会議場ができました。
その後、昭和44年以降、団地が増え、人も増えていきます。
昭和44年に岩倉団地
昭和45年に長谷団地
昭和47年に村松中層団地
昭和49年に村松テラスハウス
その後、スーパーや商店も増え、バスなどの交通も便利になっていきました。
昭和53年 洛北第二土地区画整理 施行スタート
平成7年 洛北第三土地区画整理 施行スタート
平成9年 地下鉄烏丸線 国際会館駅まで開通
区画整理は今も進行中です。
クリックすると昔の地図を拡大表示します。
参考 『わたしたちの岩倉』
京都市左京区岩倉の地名の由来
岩倉の地名は、山住神社(やまずみじんじゃ)の祭神である巨石が示すように磐座(いわくら)信仰によるとも、平安京を造営した際に、王城鎮護のため四方の山に岩蔵を作り一切経を納めたことによるともいわれます。『京都の地名由来辞典』より